映画・テレビ

2006-02-20

プライドと偏見

pride  というわけで、遅れてきた記事シリーズ第4弾。

 そろそろ「というわけ」が「どういうわけ」だったか、どうでもよくなってきたが、一応、今回の記事で、あのとき「近いうちに書く」と書いた4つが全部終わるので……。そんなことも、どうでもいいですね、すみません。

 まもなく公開期間が終わろうとしている「プライドと偏見」というよりも、もはや上映している劇場がほとんどない。
 だから簡単に済ませておきます。

 映画は、原作の筋のほとんどをよく2時間あまりの尺の中に盛り込んだ。しかも、当時の社会状況を説明的にならず、不親切にならず、さりげなく織り込んで過不足ない。監督のジョー・ライトは、これが長編デビューとは思えない演出ぶり。序盤近くのダンス・パーティの長回しなど、手馴れたものだ。
 200年以上も昔の話だが、台詞回しは大仰にならず、間抜けな男の間抜けな会話に笑いをこらえる若い娘といったシーンなどはむしろ現代的。台本はシェークスピア的なのに主人公の二人をみずみずしい生身の少年少女として描いたフランコ・ゼッフィレリの「ロミオとジュリエット」を思い出した。

 キーラ・ナイトレイは好みのタイプだが、惜しむらくは胸が小さい、というよりほとんどない。いや、いいんですけど…。この時代の衣装はちょっとどうか。現代劇の方が良いような気がするのだが。

 採点は☆☆☆☆★

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2006-02-06

過剰性と神話性

king  というわけで、遅れてきた記事シリーズ第2弾

 観たのはもうずいぶん前だぞ 「キング・コング」

 細かい部分は忘れてしまったが、圧倒的な迫力で3時間という長さをまったく感じさせない。映画が何よりもまず「見世物」であるならば、これはこの上ない出来の傑作だ。
 1933年版「キング・コング」を愛する人の中には、P.ジャクソンの「キング・コング」がハイテクに頼りすぎていることを嫌うむきもあろうが、C.G.であろうと何だろうと凄いものは凄い。要はハイテクを使って何を見せるかで、この監督の映像センスの良さは少し注意深く見れば随所に感じることができるはずだ。

 P.J.版に欠点があるとすれば――これは「ロード・オブ・ザ・リング」三部作でも目に付いたこの監督の癖だと思うが――しばしば「やりすぎて」しまうこと。要するにクドい。たとえば「間一髪」のシーンが、あまりに「間一髪」過ぎる
 「ロード・オブ・ザ・リング」でひとつ例をあげれば、「王の帰還」でオリファント部隊と戦うエオウィンとメリーのシーン。生き残れるのが奇跡としか思えないような「間一髪」があまりに連続するので、その映像がリアルであればあるほど、観ていてふと冷めてしまう瞬間がある。「キング・コング」で言うなら、肉食恐竜に襲われてパニックになった草食恐竜たちから人間たちが逃れるシーンなど。

 そのこととおそらく表裏一体だが、P.J.版「キング・コング」を傑作にしているのは、対象に対する監督の強い愛情だ。この人は対象への愛で映画を撮る人で、「ロード・オブ・ザ・リング」でもその事情は同じ。ただし、「キング・コング」の場合、コングへの愛情の深さが、1933年版のオリジナルと今回のP.J.版のストーリーの食い違いとなって現れた。
 いや、ストーリーの食い違いと書いたが、両者は終盤のいくつかのエピソードが代わっていることなどを除くと、ほぼ同じ物語を撮り直したといっても良いくらいだ。大きく食い違っているのは、コングとアン・ダロウの関係、というよりアンのコングに対する感情に関する部分だけ。これに関わる終盤のエピソードを除くと、作中で起こる事件にはほとんど変更が加えられていない。その意味ではストーリーが食い違うというより、登場人物に対する解釈が違うと行った方がむしろ良いかもしれない。
 それ以外の部分では、P.J.版はほとんどそのまま33年版の撮り直しと言って良いくらい正確なリメイクである。
 にも拘らず33年版の100分に対して倍近い188分という尺の差は、ひとえにP.J.版の「過剰性」による。

 33年版は、当時の限られた技術の中でコングや他の巨大生物をどう撮るかということに関する情熱と才能ゆえに、いまなお輝きを放っている。
 が、もうひとつ忘れてはならないのは、この作品の「神話性」ともいうべきもののことだ。
 P.J.版ではジャック・ブラック演じるデナムが、コングを見世物にすることについて、それを「神話」と表現する場面があって、33年版「キング・コング」が神話的な物語であったことに関する言及と僕は受け止めた。それは33年版を作った人々の精神を代弁するものでもあったろうし、P.J.が「キング・コング」という映画を愛することの理由の表明でもあったろう。

 しかし、P.J.版「キング・コング」はまさにこの「過剰さ」のゆえに、オリジナルが持っていたはずの神話性を失ってしまった。

 33年版においては、コングは誰にも愛されない。観客はあるいはコングを理解し、あるいは愛し、ラストにいたってあるいはその死を悲しむが、登場人物にとってコングはあくまで嫌悪され、好奇の眼で見られ、憎まれるモンスターである。フェイ・レイ演じるアン・ダロウは最後までコングを嫌い、恐れ、その死によって救われるヒロインである。

 そのことこそが33年版を「神話的な物語」にしていたのである。

 ナオミ・ワッツのアンに愛され、愛されながら死んでいった新しいコングが、そのように報われてなお神話であり続けることはできない。
 P.J.の「キング・コング」は、神話であるためにはあまりにコングに接近しすぎている。

 そして、その「接近」と最近の映画の技術の進歩は決して無関係ではないだろう。
 表現の精度が上がれば、物語の神話性は希薄になる。技術の進歩がコングの表情をより緻密に表現することを可能にし、感情を生き生きと観客に感じ取らせることを可能にする。そのようにして描かれたコングを最後まで嫌うようなヒロインというものを、成立させることが難しくなるほどに、今日の映画の技術が進歩してしまったということかもしれない。

 何だかちっとも褒めていないレヴューだが、映画は本当に素晴らしい出来だ。

 ☆☆☆☆★★(はい、牛乳屋さん、何点でしょう?)

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2006-02-05

採点方法を変更

 当ブログでは本を読んだときなどに★で採点をしているが、少し採点方法を変えたい。

 これまでは★ひとつから★五つまでの5段階で点をつけてきたが、基本的にはおもしろかった本しか紹介しないので、ほとんどが「★★★★」以上になる。というより、「★★★★★」はほとんどでないので、紹介する本はいつも「★★★★」という状態。これでは何のための採点かわからない。
 本来は「★★★」が「おもしろい」、「★★★★」が「相当おもしろい」、「★★★★★」は年間ベスト級の傑作、というくらいのつもりだったのだが、実際やってみると「★★★」はなかなかつけにくいのです。

 もう少し目盛りの多いモノサシが欲しいので、☆=20点、★=5点、100点満点で採点することにした。
映画批評の双葉十三郎氏が始めた方式だそうだ(よく知らん)が、実際には☆☆☆☆★★★(95点)が最高点になる。

 当ブログ両脇にある本のリストでも一応評価を載せているが、こちらはココログのシステムでは五段階評価しかできないので、こっちに載せる際には100点満点から5段階評価への「翻訳」をする。大体の目安として

 ★★★★★=90点以上
 ★★★★=80~89点
 ★★★=60~79点
 ★★=40~59点
 ★=0~40点

 と考えているのだが…。

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2005-12-15

プライド?

index_ph02 映画「プライドと偏見」 新春公開。

http://www.pride-h.jp/

 「プライド」? 邦題は何とかならなかったものか。ジェーン・オースティン原作の映画化であることを前面に出すつもりなら「高慢」(あるいは「自負」でも)で良いし、「高慢」が映画のタイトルに馴染まないと考えるなら(つまり、観客が原作の存在を知らないことを前提にするなら)、いっそ原題から離れた方が良くはないか。
 中途半端にイジって「プライドと偏見」などとする意図が分からない。

 それはともかく、映画にはかなり興味あり。

 原作は、こんなくだらない、と思いつつ、実は結構好き。描かれる世界は実に狭いが、やはり生きた人間がそこにいる気がするので。
 変ない言い方だが、つまらなくしようと思えばいくらでもつまらない映画にできるようなストーリーだ。重要なのは細部。
 時代が違い、社会背景が違う。小説ならば読んでいるうちに、何となく分かることでも、映画ではそれを説明しないと、意味不明なものになりかねないのではないか。

 それやこれやも含めて、ちょっと楽しみな映画。
 DVDでならともかく、恋愛映画を観に劇場に足を運ぶ人間ではないのだが、これはちょっと観に行きたい。

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2005-10-06

今さらですが「マトリックス」について・レボリューションズ

 というわけで(どういうわけだ)、以下は、一旦はこのひとつ前の記事に含まれていた記事だが、アップしてみたらどうにも長すぎるので、ふたつに分離しました(前後がつながるように、文章を少し変えました)。ちょっと思いついて書き始めただけなのに、結局映画と同じ3部作になってしまった(泣+笑)。

 「レボリューションズ」でサティーがマトリックスに連れてこられた理由は前回書いた通りだとして、なぜオラクルのところに預けられたのかには説明がない。メロビンジアンとの交渉で、親子3人のうち迎え入れられるのは1人だけという条件が付けられたから親は面倒を見られないというところまではよいとして、だからといってどうしてオラクルに引き取られることになるのか? システムの不確定要因ともいうべきオラクルのもとへ“目的”を持たないプログラム・サティーはなぜ行くのか? 

 この映画でこういうふうに説明がないまま話が進んでいると感じたら、そこにはシンボリックな意味が隠されていると思ったほうが良い。というより、その部分はシンボルなり隠喩なりに寄りかかってストーリーを進行させているので、それに気づくことができないと、唐突な感じがしたり意味不明だと感じたりしてしまうのだ。考えて見れば、何もこれは「マトリックス」シリーズに限った話ではないが。

 その意味では、このシリーズは始めから、さまざまな登場人物・都市・物の名前などに意味を持たせていた。そもそも主人公のハンドル(?)である「ネオ(Neo)」はひっくり返すと「one」で、「the One」となればイエス・キリストを指すということはしばしば指摘されているし、「ザイオン」は「シオン」の英語読み。「パーセフォニー」はギリシャ神話のペルセフォネ。豊穣の女神デメテルの娘だ。冥界の神ハデスに連れ去られ結婚するが、デメテルがあまりに悲しんだので、地上には作物が一切育たない。神々の神ゼウスがハデスにかけあって、ペルセフォネは1年のうち半分だけ地上に戻れることになる。おかげで作物は冬は育たない。つまりつまりペルセフォネは、半分は地上に生命(農作物)をもたらし、半分は死者である。パーセフォニーにぴったりでしょ? あとは、「マトリックス」冒頭近くで、ネオはアリスよろしく「ウサギ(のタトゥー)」の後を追って“不思議の国”に迷いこんでいく、とか。

 というわけで、ギリシャ神話やら、ルイス・キャロル、キリスト教と、さまざまなところからモチーフを寄せ集めてきている感じもあるこのシリーズだが、中でも、主人公ネオの恋人の名「トリニティ」(三位一体)が、この物語の中でもっとも大きな意味を持つ。他はともかく、「トリニティ」の意味をどう考えるかで、この映画をどう解釈するかが大きく変わる。
 改めて僕が指摘するまでもなく、「トリニティ」とは「三位一体」という意味である、とは、多分ネット上で「マトリックス」シリーズについて触れたサイトの多くが言及している。しかし僕は、この「三位一体」という言葉と「マトリックス」シリーズの特に第2・3作との、もっと具体的な対応関係について考えてみたい。「三位一体」の「三位」が、この物語の中の何かを指している(例えばザイオンとマトリックスとマシン・シティ、例えばネオとモーフィアスとトリニティ)と指摘するサイトはあるが、これから述べるような三者に対応させているところは、僕の知る限りではない。

 そのまえに、ちょっと総括的確認。

 「マトリックス」シリーズはキリスト教における「救世主」をモチーフに作られた物語だ。第1作「マトリックス」で、救世主の物語は一度は終結する(死から復活を経て人間を救済する)が、同じ主人公による続編を作らなければならなくなった段階で、完結していたはずの救世主物語は、もう一度語り直されなければならなくなった。同じモチーフの再展開であるにも関わらず物語が推進力を失わないために導入されたのが、「人間の精神(意識)とソフトウエアは等価である」という、世界観の深化ないし拡大である、というのが僕の基本的な考えだ。

 で、「三位一体」だが、まずキリスト教の「三位一体」の語義から押さえておくと、「三位」とはいうまでもなく「父」と「子」と「聖霊」。その三つは本質的には同じもので位相が異なるだけである、というのが「三位一体」の意味だ。そのうち、「神の子」キリストがネオを指すことに異論はないと思う。では、父たる神は何をさすか。これも、「レボリューション」のラスト近く、マシン・シティでネオが出会うボスキャラ「デウス・エクス・マキナ」(「機械の神」)を指すということは、ここまでの文章をお読みになった方ならば(その趣旨に賛同するかどうかは別として)ご推察いただけるだろう。

 それでは、「聖霊」は何を指すか。

 そもそもキリスト教における「聖霊」とはいったい何か。キリスト教に縁の薄い日本人にはなかなか理解しにくい。というよりも、キリスト教内部の、それも、例えば同じカトリック系であっても、宗派によって「聖霊」の解釈は微妙に揺れ動いており、キリスト教の基本思想に関わる概念であるにもかかわらず、おいそれと「これこれこういうものである」と断言できるものではないようなのだが(って、それもどうかわかりません。付け焼き刃では理解できないだけで本当は明瞭なのかもしれない)。
 ともあれ、「聖霊」というからには聖なる霊であり、人間の霊が人間の意識の本質であるように(これも非キリスト教徒にはよく分からない)、聖霊は創造主から発せられ、創造主から分離して世界でさまざまなことをなす意識体である(らしい)。世界のあらゆるところに存在し、ときに神の言葉を伝えたり、人の心を信仰で満たしたりする。聖書も聖霊の啓示によって書かれたそうなので、聖霊はバイブルの実質的な著者ということになる。また聖霊が人の中に入ると、不信心者には理解しにくいが、その人の口から「異言(いげん)」が出ると、聖書にも書いてあるという。

 ということになると、これはもう、説明するまでもない。「聖霊」はスミスである。というよりも本来的にはエージェント一般なのだが、「リローデッド」「レボリューションズ」にはエージェントはほとんど登場しない。その発展形(?)としてのスミス=「聖霊」と考えて差し支えないと思う。

 いずれにしても、スミス(もしくはエージェント)も、ネオも、アーキテクトひいては「デウス・エクス・マキナ」から発せられたものだ。(ネオはアーキテクトによって「救世主プログラムコード」を植え付けられたことによって、「救世主」となった)。つまり、続「マトリックス」たる第2・3作は、父なる神のもとから神の子が使わされたことによって、この世のすべてが聖霊に満たされて(満たされ過ぎという話はあるが)、この世のすべてが洗礼を受ける、最後に救世主が神のもとに帰って行って、世界が救済される、という物語である。

 こういう見方で見れば、シリーズは3作目でちゃんと完結している。これ以上語られるべき物語はないということがお分かりいただけるはずだ。つまり最終的にネオは機械と妥協してザイオンを救ったのではない。ザイオンだけでなく、それと等価なものとしてマトリックスも、そしておそらくマシンシティも、つまりは地球を人類と機械との戦争状態から救ったのだ

 最後は駆け足になったが、ここまでが、僕の「マトリックス」シリーズに関する考えの概略。いま手元に「マトリックス」シリーズのDVDをお持ちの方は、ぜひもう一度、観直していただきたい。きっとあなたの「マトリックス」観は変化するはずだ(と思いたい)。

 と、ここまでが、一旦は前回記事に載せていた部分(少し加筆しました)。せっかく2つに分けて余裕ができたので、少し付け足し。以降は推測と言うか妄想がかなり混じります。

 自問  結局、ネオは死んだの? 生きてるの?

 自答  愚問です。だってネオは三位一体の位相のひとつとしての「神の子」ですから。あえて答えるなら、死んでるとか生きてるという存在ではない。これはスミスも同じ。

 自問  ネオは何を救ったの?

 自答  ザイオンとマシンシティとマトリックス。要するにすべてです。新約聖書と大まかな構造が同じだと考えれば、それほど突飛な考えでもない。では具体的にどう救ったのか。
 要するに太陽を隠していた雲を一掃するんですね。手段は知らない。だけど、これが「人類家畜化」の原因だったんだから、みんなが救われるにはこれしかない。
 これにより、機械はエネルギー問題から開放されます。マトリックスは人類をエネルギー源とした巨大発電所ではなくなり、その点での存在意義はなくなります。しかし仮想現実も現実も等価ですから、というよりプラグにつながれた人類は依然としているし、エグザイルもいるわけだから、彼らが生きるためのインフラとして存続します。そこに住みたいエグザイルは自由に住めます(サティーのようにね)。そうなると、マシン・シティのプログラムも目的がないからといって削除されることはありません。つまり、人間もソフトウエアも、同じ程度に自由な存在になるわけです。
 そしてザイオンは…。アンプラグの人類はザイオンに閉じこもって必要はなくなります。青空のもと、住めるところならどこにでも住めるようになる。かくて、「リローデッド」でザイオンの評議会の長老(だっけ?)がネオに語ったように、人間と機械は共存します。
 何を根拠にそんなことを言うかって? さあ、あんまり根拠はない。だけど、ネオとトリニティがマシン・シティに向かうとき、一瞬だけホバークラフトが雲の上に出て青空が見えるシーンがありますね。それと、ラストでサティーが夕日を作ります(与えられた目的はなくてもサティーは何かをし始めるわけですが、それはともかく)。「ネオも見るかしら」だか「ネオに見せたい」だかというセリフがあったと思うけど、これらを併せ考えると、スミスとともにデウス・エクス・マキナのもとにかえったネオは、というより父と子と聖霊は、そういうことを考えるのではないか、と。話が前後しますが、サティーがオラクルのもとに預けられたのも、これとの整合性を考えると納得できるような気がするのです。

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今さらですが「マトリックス」について・リローデッド

 というわけで、ずいぶん間隔が開いてしまったが、先日記事の続き。

 その前に、お時間のある方は↓
   http://homepage.mac.com/tomo_sakuray/Matrix_ref.html

 「マトリックス・レボリューションズ」のストーリー解説としては、ネット上で僕の知る限りこの人の解釈が最も緻密。あくまでストーリー(映画上でどういう事柄が起こっているか)の解釈に特化していて、その点では(掲示板での管理人氏の発言も含めると)実に細部にわたって検証が行われている。その分、そこに展開する物語としての意味などには頓着しない方針のようで、映画をどう評価するかという視点からは無縁。

 あるいは↓
  http://comicmasterj.cocolog-nifty.com/blog/2005/08/post_c866.html

 こちらは「リローデッド」と「レボリューションズ」に突っ込みを入れているのだが、すべてを飲みこんだ上での批判なので、一つひとつの指摘がまったく妥当。ここまできちっと言われてしまうと反論できない。
 ただ、ここで指摘されていることのうちのいくつかに関して弁護させてもらうとすれば、ウォシャウスキー兄弟はわざと分かりにくく作っているフシがある。

photo_rev_sept_10 第1作が大ヒットしたことで、第2・3作を作るにあたってフリーハンドを得たウォシャウスキー兄弟は、「少しだけ牙をむいた」、というようなことを前回書いた。
 どう牙をむいたかと言えば、つまりハリウッド的価値観からはみ出した「過激な」主張をしたということだ。おそらく少し過激に過ぎると彼らは思ったから、正面切って主張せず、ハリウッド的にも十分通用するように、「過激な主張」の部分をヒーローとアクションと恋愛の物語の背後に隠れるようにした。その分分かりにくくなった。牙を「少しだけ」むいたというのはそういう意味だ。

 今回は、いつの間にか本題に入っているわけだが、ではその「過激な」主張とは何か? それは要するに、人間の意識・人格・記憶はソフトウエアと等価であり、その文脈に限ってという条件付だが「現実」と「仮想現実」に本質的な違いはない、ということだ。それはつまり、物語に沿った言い方をすれば、マトリックス内にとらわれた人間も、現実内の(ザイオンの)人間も、マトリックス内に棲むプログラム(エグザイル)も、質的には同じものだという、モーフィアスには到底受け入れられない(そしてもちろんオラクルはずっと以前から知っていた)事実だ。
 第1作の物語が抱えていた矛盾(前回指摘)を解消しようとした結果、作り手は、「人間の肉体・器官による入出力をすべて肩代わりできるほどよくできた仮想現実は、現実と区別がつかない」という「一般相対性理論」(ウソ)に辿り着かないわけには行かなかった。
 続編(結果的には2本に分けて撮られた)はこれに沿って作りたい、しかし、あまり声高に主張するとハリウッド的アメリカ的映画には憚られるので、小さな声でそっと言ってみた、というところではないだろうか。

 以下、簡単に検証する。

 スミスとは何者かとネオに問われてオラクルは言った。「あなたよ。対極にある負のあなた」。しかし、それはどういうことか……。
 そもそもスミスがシステムの一部(「エージェント」)であることをやめ、暴走を始めるきっかけとなったのは、第1作のラストでネオが彼の内部に入り込んで破壊したことだった。破壊されたはずのスミスがどのような経緯で、システムの命令に逆らって復活を遂げたのかは必ずしも細部まで明確なわけではないが、「リローデッド」においてスミスが復活後初めてネオと顔を合わせる場面で、自らの復活とネオとの関係について「何が起きたかは分からないが、君の一部が私にコピーされたか、上書きされたらしい」と述べている。
 これ以後、スミスは、自らをコピーして増殖するという能力を身につけ、マトリックス内でネオと同等かそれ以上の力を得ていく。「リローデッド」の中盤で、マトリックスに潜入していたベインを追い詰めて自らのコピーに変えてしまう。ベインの人間としての本体は当然「現実世界」にあるが、そこへスミスのコピーが「帰還」してしまうことになる。
 以後のベインは実はスミスである。ネオを殺害しようとしたり、オラクルとの接触のミッションに参加しようと自分の船の船長をたきつけたり、マシンのザイオンへの攻撃に絡んで工作を行い、大惨事を引き起こしたりするのだが、ここで注目すべきことは、人間がマトリックスに潜入するのと逆に、逆にプログラムが現実世界に潜入したということだ。
 乱暴な言い方をすれば、つまり、人間の脳(精神活動)とソフトウエアは同じ物である(少なくとも、相互に交換可能である)。

 一方、ネオはというと、「リローデッド」のラスト、現実世界においてセンチネル(あのタコみたいな戦闘機械ね)に襲われて、咄嗟に武器を持たずにこれを撃破する。その結果彼はその後しばらく、マシンシティとマトリックス空間の境界(「現実と仮想現実の境界」と見ても良いし、「ハードとソフトの境界」と見ても良いかもしれない)に閉じ込められる。そして「レボリューションズ」は、彼がそこからどうやって帰還したか、を語るところから始まる。ネオは現実側からではなくマトリックス側から手を回したトリニティらによって、マトリックス経由で帰還する。要するに、ネオは仮想現実を制御しているのと同じ仕組みを、無自覚のうちに現実世界のセンチネルにも見出し、これに生身でアクセスしてセンチネルの機能を奪った。ただ、そのことに自分でも十分な理解ができず、彼の意識はアンプラグのままで機械の中をさまようことになった、ということだろう。

 ちょうどスミスがベインの身体を借りてアンプラグで現実世界に侵入したのと逆のことがネオに起こっている。ネオとスミスが正反対の存在として、マトリックスと現実世界を反対方向から照射することで、両者が等価であることが示されているのだ。

 「レボリューションズ」の冒頭、マシンシティからマトリックスへの「通路」である地下鉄の駅でネオが出会う少女サティーは、「レボリューションズ」のキーとなるキャラクターである。
 サティーはマシンシティのプログラムであるインド人夫婦で、プログラムではあるが、特に「目的」を持たない。しかし、「目的を持たない」とは何か? プログラムに「目的がない」ということは、機能がないということと同じではないのか? 父ラーマによれば、「我々の世界では(そうしたプログラムは)削除されます」。娘を「愛している」から、メロビンジアンを頼ってマトリックスに迎え入れてもらうのだとラーマは語る。ネオが怪訝そうな顔をすると、「(プログラムが)愛を語るのは変だと?」「愛は人間の感情だ」「ただの言葉です。大切なのは言葉が表す“関係”です」。そしてさらにはネオを見つめ、思い当たったように「愛する人がいますね?」。うなずくネオに「その人を守るために何をします?」「何でも」「では、我々がここにいる理由は同じです」。

 プログラム同士が結婚して(あるいはあらかじめ結婚した存在として作られたプログラムか?)“子ども”を作り、しかもその子プログラムは“目的”を持たない。そうした存在であるサティーが、「削除」を逃れ、マトリックスのシステム内不確定要因というべきオラクルのもとに預けられるが、マトリックスごと消滅の危機にさらされ(というより一旦消滅す)るが、救世主ネオによってマトリックスごと(というより世界ごと)救われ、ネオのために“夕日”を作る話。
 ごくごく乱暴な言い方だが、「マトリックス」シリーズとは煎じ詰めればそういう物語であると、言い切ってしまうことも、可能だろう(ホントに乱暴だなぁ)

 と、本当は今回で終わるつもりだったが、長すぎるので2つに分けました。次回本当に完結(とほほ)。

 ※10月6日午前10時追記 文字色を一部変えていましたが、うまく表示されないので標準色に戻し、それに伴う記述を一部変更しました。
 併せて、記事が長くなりすぎたので、前半と後半に分け、後半部分は別記事といたしました。それに伴なう記述の一部変更を行いました。

 ※10月7日午後8時40分追記
>サティーはマシンシティのプログラムであるインド人夫婦で
   ↓
サティーはマシンシティのプログラムであるインド人夫婦の娘で、

に訂正します。

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2005-09-28

今さらですが「マトリックス」について

 グレッグ・イーガンのSF長編『ディアスポラ』(山岸真訳・ハヤカワ文庫SF)が出たので、さっそく読んでいる。ソフトウエア化された人間という、『順列都市』でもおなじみのモチーフだが、しょっぱなからイーガン節炸裂で、物語の舞台となる時代・社会に関する説明なしにいきなり話が進む上、固有曲率やらリーマン空間といった、文系には脂っこい(消化しにくい)ことばが頻出するので、なかなか進まない。ヒーヒーいいながら読んでいるにも拘らず「何となく」程度にしか理解できないが、それでも主人公と思われる人物(ソフトウエア)が誕生するまでの過程を描いた第1章は、センス・オブ・ワンダーに満ちている。まだ全体の半分くらいしか読んでいないので感想めいたことは言えないが、とりあえず第1章(最初の70ページくらい)の最後まで辿り着いて、それでもこの小説に取り憑かれないようだったら、現代SFをこれ以上追いかけようとするのはやめたほうが良いかもしれない。

matrevo この「ソフトウエア化された人間」というフレーズで、思い浮かべたのは、映画「マトリックス」3部作のこと。「仮想現実」というキーワードで括るよりも、「人類のソフトウエア化」という概念のほうが、この3部作の本質に寄り添っているかな、と思ったのである。

 えーと…、何言ってんだか分かりませんね、すみません。「マトリックス」とはまた、何を今さらとお思いでしょうが、僕としてはどこかで一度まとめておく必要があって。どうも引っかかっているのです。あのシリーズに対する世間の評価と僕のそれとのズレが。

 この流れでいくとイーガンを読んでいてなぜこの「マトリックス」問題を思い出したのかというところから本題に入っていくことになるのだけど、よく考えたら、それは書けない。できればこの文章が終わるまでにはどこかで書きたいとも思うけど、それもたぶん無理。「また始まった」と思われる向きもありましょうが(苦笑)、ごめんなさい、分かる人だけ分かってね(ハート)。イーガンの話はとりあえず忘れてください。

 というわけで、ようやく(再度苦笑)本題。

 つまり、あの3部作とは一体何だったのか? 

 第1作「マトリックス」はともかく、実際にはひと連なりの作業の中で作られた2本の映画、第2作「マトリックス・リローデッド」第3作「マトリックス・レボリューションズ」に関しては、世間的な評価はいまもって低い。

 その評価の低さは、ごく大雑把に総括してしまうならば、特に「レボリューションズ」終盤の「けむに巻かれた」感によるところが大きいのではないか。つまり、「マトリックス」一作で完結させておけばいいものを、「リローデッド」で風呂敷を広げすぎてしまい、最後は“哲学もどき”に逃げたのではないか、と。話を大袈裟にするだけしておいて無理矢理つけたあの結末は、機械と妥協して条件付きの部分的な戦果を上げました、というに過ぎず、シリーズ全体を矮小化しただけに終わったのではないか、と。

 しかし、この3部作はちゃんと首尾一貫していると僕は思っている。映画としての出来がどうかという議論はあるかもしれないが、少なくとも筋立ては破綻していない。

 第1作には、ひょっとしたら作り手の側さえも明確には考えていなかったかもしれない矛盾が内在していた。しかし続編を作らず1作のみで完結させるのならば、それはさほど表面化しないので放置することも可能だったのだ。続編を作るという前提に立ったとき、作り手はその問題に直面しないわけには行かなくなった。
 というよりも、第1作の大ヒットによってフリーハンドを手にしたウォショウスキー兄弟が、その矛盾を表面化・解決する方向で続編を作ったと言った方が正確かもしれない。

 その「矛盾」とは、一体何か? それはもちろん「リアルとは何か」ということだ。

 これは、バーチャルリアリティを根幹に据えた物語では避けて通れない問題だ。というよりも、「仮想現実」に関する物語はすべて、明示的にせよ暗示的にせよ、常にこの問題を我々に突き付けるために存在しているのかもしれない。
 マトリックス内で暮らす人々が自分たちの世界を「リアル」と感じているなら、マトリックスはリアルと等価ではないか? ネオら「リアル」の側の人間がマトリックスへの「潜入」中にマトリックス内で「殺され」ると、「現実」の彼らも同時に死ぬのだとするなら、「リアル」と「マトリックス」の本質的な違いは何か。
 そしてそのことは、〈ネオらがマトリックス内のほかの人間(警官やら警備員やら)を殺すことは殺人にならないのか〉という疑問と表裏一体だ。

 第1作ではこの問題は、ある意味単純な割り切り方で片隅に追いやられ、ひっそりと存在させられていた。それは当然のことながら、この映画が何よりもまずハリウッドの娯楽アクション映画でなければならなかったからだ。
しかし第1作が大ヒットしたことで、ウォショウスキー兄弟は第2・3作で少しだけ「牙」をむく。

 「健康な」ハリウッド的価値観は少し後退し、第1作においては、人類家畜化のためのツールとして存在し、現実世界に覚醒した人間にとっては唾棄すべきものであったバーチャル空間(マトリックス)は、第2・3作では、ひょっとしたらそうではない何か、現実と等価かもしれない何かに変貌していく。
 しかし、「健康な」ハリウッド的価値観とは何ぞや。苦しい「現実」に音を上げ、豪勢な「仮想現実」を選ぼうとする裏切り者サイファーの選択を、「退嬰的」と退けるのは確かに「健康」かもしれない。しかし、それならば、〔ネオやトリニティは覚醒したから、単なるソフトウエアであるマトリックスの中では超人のように行動でき、教習プログラムをインストール(?)するだけでヘリコプターを操縦でき、かっこいいアクションで人をどんどん殺せる(そのことによって観客は快感を覚える)〕というのは退嬰的で不健康ではないのか。
 第1作が矛盾を孕んでいたというのはそういう意味でもある。

 このシリーズで展開される物語は、よくいわれるような人間vs機械実存vsプログラム現実vs仮想現実といった図式で括られるようなものではない。ましてや愛(人類愛や男女の愛情)が機械に勝つ話などではない
 第1作の段階では、観客はそのようにとらえてさほどの支障がなかった。それは第1作では、〔機械・プログラム・仮想現実〕と、これに対立するものとしての〔人間・実存・現実〕との関係が、〔マトリックスのシステム・エージェント〕対〔覚醒した人間〕という対立軸とほぼ重なっていたからにほかならない。第2・3作ではこの二つの対立軸が次第にずれていく。

 その、ずれていく過程は、すなわち主人公ネオがさらなる覚醒に向かう過程でもあり、それに従って、かつては彼を導いたモーフィアスの世界認識からネオの世界認識が大きくはみ出し、さらなる高みへと上っていく過程でもある。
 その“ずれ”を感知できず、モーフィアスの世界観を共有したままでいると、最後で裏切られたような気分になる。それが、このシリーズを評価しない人々に起こったことなのではないのか、というのが僕の考えだ。

 うーむ、昔から言われていることだが、僕の話は長い。付き合ってくれた人、すみません。

 この項続きます(ガーン)。

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2005-09-19

祭りの終わり

 というわけで観に行きましたよ、待望の映画。

 「銀河ヒッチハイク・ガイド」

 祭りは終わった(笑)

 好きか嫌いかでいえば好きですがね。なんかギャグが決まらないんだよな。

 全体のストーリーは途中までは概ね原作に沿っている。途中からかなり変更が加わって、ラストは、「感動」したい人たち向けにずいぶんヒヨった感じはあるが、まあ原作者ダグラス・アダムスの精神は受け継いでいると一応は言ってもよいだろう。原作にあるそのままのギャグも数多く使われている。

 その点ではおなじみの世界のはずなのだが、どうもスベる。作り手の側がなんどもそのギャグを心の中で反芻しているために、初めてそれを受容する人から見たらどう映るのかということが、分からなくなっちゃっているのではないか。

 自我に目覚めたクジラの短い生涯の話も、地球滅亡にいたるまでの冒頭のたたみ掛けるようなギャグも、いじけロボット・マーヴィンも、開け閉てのたびに喜びを感じる自動ドアも、原作そのままに出てくるが、ただ「出しときましたから」というだけで、笑いにまで結びつけることができない。マーヴィンなんて、「いつもイジケている」という性格付けがされただけで、いまひとつ映画の中でそれが活きてこない。もう少し他の役者と絡めたはず。要するに原作がどうして面白かったのか、作り手が分からなくなってしまっているのだ。

 と、自信満々で言うわけにもいかないのは、イギリス人のギャグセンスが捻じくれていて理解できなかったりするからだが……。

 伝説のイカサマ麻雀の名人3人(いまは高齢で動作が鈍くなっている)と勝負しにいった男の話(確か清水義範の短編)を思い出した。

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2005-09-11

「妖怪大戦争」

 自分ひとりだったら絶対観なかった「妖怪大戦争」。家族3人で観てまいりました。娘との約束だったので…。

 いや、なかなかに素晴らしい。何がといって、傑作を作ろうとか、きちんとした映画にしようという気が全くないのが素晴らしい。そもそも、妖怪がたくさん出てくる映画を作ろうという時点で、映画の主流みたいなものからはハズれているし(←主流って何だ?)、妖怪が正義のヒーローよろしく巨悪と戦ったらおかしかろう。

 その辺のセンスがちゃんとしてるので、「愉快な妖怪たち」がベタなギャグを連発してもオッケーだし、張ったはずの伏線がそのまま放置されても(たぶん脚本が悪いのではなく編集作業がゾンザイだったのだと思う)、細かいところで辻褄合わなくても全然オッケー。大天狗はどうなったんだ一体?

 東京(いやもしかすると日本、ヘタすると全世界)存亡の危機に直面して、妖怪は団結なんかしないし、「大戦争」と題名がついていても戦ったりなんかしない。

 きっとそこのところがダメな人はダメなんだろうなとも、一方で思う。そういう人には、忌野清志郎扮する「ぬらりひょん」の決めゼリフ「きょうはお開き」(正確には覚えていない)は悪い冗談にしか見えないだろうし、結末は、その悪い冗談をそのまま持ち込んでいい加減にケリを付けたようにしか見えないかもしれない。

 しかし、ポイントは正にそこだ。

 映画を作る過程で、妖怪とは何ぞやというコンセプトの部分に関しておそらく最後まで発言力を保持した水木しげる御大をはじめとする妖怪作家の皆さんたち(って、わたしゃその辺の事実関係とか、全く知りませんが)が、最も強調したかったのはきっとそこの部分だろう。そこが受けとめられないと、きっとこの映画の愛らしい姿も見えてこないだろう。

 それほど大袈裟な話でもないか。

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