老人版バトル・ロワイヤル
『銀齢の果て』
筒井康隆
おもしろくなかったとは言わないが、特にこの手の話の場合、筒井だと読み手の側はどうしてもハードルを高くしてしまう。
どこかの雑誌で著者本人も語っていたが、これは筒井版『バトル・ロワイアル』。中学生ではなく老人が殺し合うところが「オリジナル」との大きな違い。
僕が『バトル・ロワイヤル』を、やはりそれほど好きになれなかったのは、「残酷」だからではなく、設定がおざなりにしか行われていないから。
中学生に殺し合いを行わせるための、必要最小限の説明をすましてしまうと、「手続きは済んだ」とばかり、「本題」に入っていく。要するにRPGの導入部みたいなもので、主人公たちがいくら社会や国家権力への怒りを募らせようと、戦場に美しい友情やら愛情やらの花を咲かせようと、体制転覆を決意しようと、そんなものは上っ面を舐めただけのものにしか見えない。
作品の眼目は明らかに別のところにあり、それを一方で語るための免罪符代わりに持ち出してきたに過ぎないようなものにことさら脚光を当てて、優れた青春小説であるなどと言われても、何と言葉を返してよいやら。
「大東亜共和国」とか「バトルロワイヤル法」とか、それらしい設定を持ち出してきても、それらは「逃げ場のない場所での少年たちの殺し合い」というきわめてゲーム的なこの小説のプロットを成立させるためだけの、俄か誂えのプレハブ建築。そんなものに「若者の怒り」をぶつけられても困る。
『銀齢の果て』が『バトル・ロワイヤル』と決定的に違っているのは、子どもじゃなくて老人が殺し合うこと、っつーのはさっき書いた、そうじゃなくて、そういう中途半端な世界設定をしないことだ。
老人が殺し合わなければならなくなる理由付けは『バトル・ロワイヤル』よりさらにおざなり。その替わり彼らの社会に対する怒りも体制への批判もおざなりで、そんなことに作者は頓着していない。
早く言えば作者の姿勢として、『バトル・ロワイヤル』などがこだわった部分に関して、まったくもって潔い。
などというのは今に始まった話ではなく、筒井のスラップスティック方面の作品の、言ってみればそれが特徴。今回の作品自体は出来としては全盛期のものにはやはり遠く及ばないが、それでも筒井は筒井。なにやら名人と謳われた噺家の、老いてすっかり口も回らなくなったのちの、しかしその歳にして初めて出せる味わいの落語を聴いているような感じ。
あるいは晩年の馬場のプロレスとか。
評価は☆☆☆★
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