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2006-02-06

過剰性と神話性

king  というわけで、遅れてきた記事シリーズ第2弾

 観たのはもうずいぶん前だぞ 「キング・コング」

 細かい部分は忘れてしまったが、圧倒的な迫力で3時間という長さをまったく感じさせない。映画が何よりもまず「見世物」であるならば、これはこの上ない出来の傑作だ。
 1933年版「キング・コング」を愛する人の中には、P.ジャクソンの「キング・コング」がハイテクに頼りすぎていることを嫌うむきもあろうが、C.G.であろうと何だろうと凄いものは凄い。要はハイテクを使って何を見せるかで、この監督の映像センスの良さは少し注意深く見れば随所に感じることができるはずだ。

 P.J.版に欠点があるとすれば――これは「ロード・オブ・ザ・リング」三部作でも目に付いたこの監督の癖だと思うが――しばしば「やりすぎて」しまうこと。要するにクドい。たとえば「間一髪」のシーンが、あまりに「間一髪」過ぎる
 「ロード・オブ・ザ・リング」でひとつ例をあげれば、「王の帰還」でオリファント部隊と戦うエオウィンとメリーのシーン。生き残れるのが奇跡としか思えないような「間一髪」があまりに連続するので、その映像がリアルであればあるほど、観ていてふと冷めてしまう瞬間がある。「キング・コング」で言うなら、肉食恐竜に襲われてパニックになった草食恐竜たちから人間たちが逃れるシーンなど。

 そのこととおそらく表裏一体だが、P.J.版「キング・コング」を傑作にしているのは、対象に対する監督の強い愛情だ。この人は対象への愛で映画を撮る人で、「ロード・オブ・ザ・リング」でもその事情は同じ。ただし、「キング・コング」の場合、コングへの愛情の深さが、1933年版のオリジナルと今回のP.J.版のストーリーの食い違いとなって現れた。
 いや、ストーリーの食い違いと書いたが、両者は終盤のいくつかのエピソードが代わっていることなどを除くと、ほぼ同じ物語を撮り直したといっても良いくらいだ。大きく食い違っているのは、コングとアン・ダロウの関係、というよりアンのコングに対する感情に関する部分だけ。これに関わる終盤のエピソードを除くと、作中で起こる事件にはほとんど変更が加えられていない。その意味ではストーリーが食い違うというより、登場人物に対する解釈が違うと行った方がむしろ良いかもしれない。
 それ以外の部分では、P.J.版はほとんどそのまま33年版の撮り直しと言って良いくらい正確なリメイクである。
 にも拘らず33年版の100分に対して倍近い188分という尺の差は、ひとえにP.J.版の「過剰性」による。

 33年版は、当時の限られた技術の中でコングや他の巨大生物をどう撮るかということに関する情熱と才能ゆえに、いまなお輝きを放っている。
 が、もうひとつ忘れてはならないのは、この作品の「神話性」ともいうべきもののことだ。
 P.J.版ではジャック・ブラック演じるデナムが、コングを見世物にすることについて、それを「神話」と表現する場面があって、33年版「キング・コング」が神話的な物語であったことに関する言及と僕は受け止めた。それは33年版を作った人々の精神を代弁するものでもあったろうし、P.J.が「キング・コング」という映画を愛することの理由の表明でもあったろう。

 しかし、P.J.版「キング・コング」はまさにこの「過剰さ」のゆえに、オリジナルが持っていたはずの神話性を失ってしまった。

 33年版においては、コングは誰にも愛されない。観客はあるいはコングを理解し、あるいは愛し、ラストにいたってあるいはその死を悲しむが、登場人物にとってコングはあくまで嫌悪され、好奇の眼で見られ、憎まれるモンスターである。フェイ・レイ演じるアン・ダロウは最後までコングを嫌い、恐れ、その死によって救われるヒロインである。

 そのことこそが33年版を「神話的な物語」にしていたのである。

 ナオミ・ワッツのアンに愛され、愛されながら死んでいった新しいコングが、そのように報われてなお神話であり続けることはできない。
 P.J.の「キング・コング」は、神話であるためにはあまりにコングに接近しすぎている。

 そして、その「接近」と最近の映画の技術の進歩は決して無関係ではないだろう。
 表現の精度が上がれば、物語の神話性は希薄になる。技術の進歩がコングの表情をより緻密に表現することを可能にし、感情を生き生きと観客に感じ取らせることを可能にする。そのようにして描かれたコングを最後まで嫌うようなヒロインというものを、成立させることが難しくなるほどに、今日の映画の技術が進歩してしまったということかもしれない。

 何だかちっとも褒めていないレヴューだが、映画は本当に素晴らしい出来だ。

 ☆☆☆☆★★(はい、牛乳屋さん、何点でしょう?)

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コメント

maimaiさんの記事に☆☆☆☆☆★★★です。ちょっと過剰かも・・・。(笑)

某王さまの「大猿クイズ」の答えを意識して「キング・コング」って強調していない?
問題の時にわざと「KING KONG」って書いとくなんてズルだよね>王さま。

投稿: 牛乳屋 | 2006-02-07 19:32

☆☆☆☆☆★★★って、115点?
褒めていただいてうれしいが、そりゃ過剰です。
せめて☆☆☆★★★くらいでないと真実味が…。

投稿: maimai | 2006-02-07 23:09

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» ■〔映画鑑賞メモVol.7〕『キング・コング』(2005/ピーター・ジャクソン) [太陽がくれた季節]
うーん、はや、Xマス・ウィークですねぇ... 幸い、今年のクリスマスはイヴの日を真ん中にしての三連休! お互いに良きクリスマス、三連休にしたいものです!! こんばんは、ダーリン/Oh-Wellです。 いやはや、 私事ながら、私め、先週の中ほどから妙に忙(せわ)しさが増すばかりと為って来ております。 この月は、言うまでも無く、「年内中に済ませなければ仕様がない」ことが些事から大事まで誰でも幾つかあって、先延ばしにしてしまっていることが、この中旬ほど以降に架けていよい... [続きを読む]

受信: 2006-02-07 01:25

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