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2005-11-20

著作権のこと

http://yama-ben.cocolog-nifty.com/ooinikataru/2005/11/post_0e8f.html

飛鳥部勝則の「盗作」問題。
もはや古い話題に属するのかもしれないが、議論すべき点が多々あるようだ。

 「盗用」した先が三原順「はみだしっ子」だったことに意外の念を覚えた以外にはさほどの関心も覚えず、版元が『誰のための綾織』の絶版・回収を決めたことにも、さしたる感想は持たなかったのだが、先日知人からその話をされてから、少し気になってきた。
 差し障りがあると困るのでボカした言い方をするが、その知人というのは僕などとは比べ物にならない著作権問題と深く関わるところで仕事をしている人物だが、彼が言うには版元側の対応に相当問題があるらしい。
 話を聴いたときにはあまりピンとこなかったのだが、あとで気になって、飛鳥部勝則の一件に関する言及を、ネットで検索してみた。
 で、論点が一番解りやすく読み取れるのが↑のサイトだと思う(とりあえず、3つ続きになっている記事の、最後のもののURLを掲げておく)。

 ちょっと調べただけで、いろいろな論点がありそうだが、一番気になるのはやはり「盗作」あるいは「盗用」とは何か、という点だ。
 そういえば、以前から気になっていたのが、例えば「マトリックス レボリューションズ」の大詰めで(<また「マトリックス」かい)、デウス・エクス・マキナの何本もの触手(?)にネオが接続されたまま持ち上げられるシーンをとらえて「『ナウシカ』からパクった」とか、ネオとスミスの最後の空中戦が「ドラゴンボール」とそっくりだから、「レボリューションズ」にオリジナリティはない、というような発言だ。
 あるいは「スラムダンク」トレース疑惑。某漫画家に「スラムダンク」を「トレースされていた」井上雄彦の、オリジナルであるはずの「スラムダンク」自体がNBAの試合写真からトレースしていた、というものだ。某漫画家の「トレース」がどういうものだったかはよく知らないが、井上の「トレース」に関して言えば、これが「盗用」になるならアンディ・ウォホールの作品は「作品」ではない。

 「表現とは何か」「著作権とは何か」に関するきちんとした理解が必ずしもなされていなくとも(僕自身について言えば、まがりなりにも理解しているとは言いがたい)、現代のネット社会ではそれなりに力をもった発言や行動ができる。
 そうした意味では、やはり一番考えなければならないのは、「盗用された側」(この場合は三原順)のファンなどがネット上である作品を「盗用」だと騒ぎ、それを受ける形で版元側が、「盗用した」とされる側に不利となる措置を、おそらくきちんとした検証(あるいは手続き?)を経ずに行ったと思われる点だろう。

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コメント

>「盗用された側」(この場合は三原順)のファンなどがネット上である作品を「盗用」だと騒ぎ、それを受ける形で版元側が、「盗用した」とされる側に不利となる措置を、おそらくきちんとした検証(あるいは手続き?)を経ずに行ったと思われる点だろう。

どうして、このように思われたのでしょうか?

出版社の報告には

>、『はみだしっ子』を取り寄せ、両作品における表現の確認をとるいっぽう、著者飛鳥部氏と直接面談するなど、慎重に社内協議を進めてまいりました。
結果として、いくつかの箇所で『はみだしっ子』を参照したと考えられる類似表現を確認しております。

と、あるのですが。
そして、著者自身が「素材カード」というものも認めているのですが。

>一番考えなければならない

ということですので、あやふやな憶測で

>おそらくきちんとした検証(あるいは手続き?)を経ずに行ったと思われる

と仰っているのではないと思いましたが、私にはこの推測の根拠となるものが分かりません。

参考までに教えていただければ幸いです。

投稿: トヤマ | 2005-11-22 15:35

トヤマさま

コメントありがとうございます。

>>一番考えなければならない

>ということですので、あやふやな憶測で

>>おそらくきちんとした検証(あるいは手続き?)を経ずに行ったと思われる

>と仰っているのではないと思いましたが、私にはこの推測の根拠となるものが分かりません


これは僕の書き方が悪かったかもしれません。「思われる」と書いたのでは「推測」と受け止められて当然ですが、しかし、これは推測ではありません。
「きちんとした手続きを行っていない」といったのは、これが盗作であるかどうかについて明確になっていない、ということです。


>出版社の報告には

>>『はみだしっ子』を取り寄せ、両作品における表現の確認をとるいっぽう、著者飛鳥部氏と直接面談するなど、慎重に社内協議を進めてまいりました。
>>結果として、いくつかの箇所で『はみだしっ子』を参照したと考えられる類似表現を確認しております。

>と、あるのですが。
>そして、著者自身が「素材カード」というものも認めているのですが。

というのは、まったくその通りだと思いますが、作品の一部(あるいはかなりの部分と言ってもよいと思いますが)にこの作品と類似の部分があるからといって、それがすなわち「盗作である」あるいは「盗用である」ということにはならないというのが僕の理解です。
作品全体が何を意図して、そのなかで該当部分が何を企図して書かれているのかを理解したうえでなければ、単純に類似部分が多いというだけで判断することはできないでしょう。
短歌では「本歌取り」と言って、全分量の半分以上が先行する作品と一字一句異ならないようなものでも、独立した作品として成立しうる場合があるのはご存知の通りです。

しかし、僕がここで言いたいのは、そうした検証ができていないのに早々に絶版を決めた原書房はけしからん、ということではありません。
不器用な言い方で申しわけないが、厳密に盗作であるかどうかの判断(? よく分かりませんが)とは別に、倫理的観点から迅速な対応をとろうとして出版社が今回のような措置を取ることはあるでしょう。
例は悪いが、公害訴訟で因果関係が立証できていない段階で、原因者と目される側が企業の社会責任の観点から何らかの保障を申し出るようなものです。
話がそれだけならその企業は褒められこそすれ、貶されることは決してない。
しかし、作品の絶版・回収となると、出版社も損害をこうむるが、著者も損害をこうむるわけです。
この倫理的側面からの対応という文脈の中では著者が過去の作品からの「参照」を認めたとしても、仮にそれが厳密に法的な議論にさらされた場合、絶版を余儀なくされた側の権利をいささかなりとも侵害したことになる恐れは常に存在するわけです。
その辺りが、最近の飛鳥部氏の、氏を批判する立場の人から見たら「悪あがき」とも思われるような言動につながっているのかもしれません。

本文記事にも書きましたが、例えば僕自身、著作権法に関して、あるいは文学表現に関して、さしたる知識も理解も持たずにこうした文章を書き、それを多くの人が読む、そういうことが可能なのが現在のネット社会です(ですから、事実誤認、見当違い等があればご指摘ください)。
専門家でない人が「盗作である」と主張しても、それが大きな力となりうる、そういう傾向がこれからどんどん強まるであろう現代社会であればこそ、出版社はこれまでとは比べ物にならないくらい慎重に対応しなければならないのではないか、というのが、本文記事最後の二つの段落の主旨です。

投稿: maimai | 2005-11-23 01:35

早速のお返事、どうもありがとうございました。

>「きちんとした手続きを行っていない」といったのは、これが盗作であるかどうかについて明確になっていない、ということです。
「明確になっていない」とは、「盗作であるという正式(法的)な判決が下っていない」との意味でしょうか?

つまり、版元である出版社と著者が協議したくらいでは
>作品全体が何を意図して、そのなかで該当部分が何を企図して書かれているのか
理解や検証ができていないということでしょうか?

ミステリー・リーグは原書房のひとつの大きな企画であると思われます。
その中の一作品を、小説としてはおそらく最悪の理由で絶版・回収にしなければならないのは、出版元にとっても痛手であり、とうてい安易に出せる結論ではないだろう。単純作業としての類似部分の確認なら、検証サイトを参照しなくても1日もあれば充分なので(実際にやった私がそうでした。ちなみに、『誰のための綾織』読了→これは合作者による作品か?と推測→ネットで情報検索→三原順著『はみだしっ子』との類似を指摘したブログがヒット→先入観なく確かめたいため、具体的な類似部分の指摘以降は読まず→『はみだしっ子』入手→類似部分の確認 という流れでした)、出版社がそれを知ってから対処するまで1ヶ月かかっているのは、「その類似部分がどうのようなものであるのか」「盗作か、引用か、オマージュか」「問題があるのかないのか」について協議していたからではないか、というのが私の推測です。

その勝手な推測のうえでこちらのブログに
>おそらくきちんとした検証(あるいは手続き?)を経ずに行ったと思われる
とあり、
>著作権問題と深く関わるところで仕事をしている人物だが、彼が言うには版元側の対応に相当問題があるらしい。
とあるのを読んだものですから、なにか一般に知られていない情報があるのではないかと先走って、あのような質問でお騒がせしてしまったのです。
申し訳ないことをしてしまいました。

とはいえ、
>専門家でない人が「盗作である」と主張しても、それが大きな力となりうる、そういう傾向がこれからどんどん強まるであろう現代社会であればこそ、出版社はこれまでとは比べ物にならないくらい慎重に対応しなければならないのではないか
には賛成ですが、今回の原書房の実際をご存知ない立場から発言されるのであれば、今少し厳密な表現が必要ではないでしょうか?

おそらく、「盗作」について明確なラインがないのだから、今回のような騒ぎになってしまうのでしょうね。
しかしながら、「盗作」に関する議論に「本歌取り」の説明が引かれてくるのが、私にはよく理解できないのです。
うまい喩えではありませんが、製図の狂いを指摘されて「ピカソを知らないのか。あれは芸術だ。だからこれも狂いではない」と主張するようなものと思えるのです。
大きなくくりでいえば「文学作品」となるのでしょうが、和歌と小説では作品としての在り方が異なっているうえ、和歌においてひとつの技巧として成立している「本歌取り」には“盗作か否か”という論がおきません。(古くは盗古歌という考えもあったのですが……)
それでもあえて小説ジャンルに転じて「本歌取り」をもってきたとしても、今回の場合ですと、原典を明らかにせず、露骨な形で他ジャンルの作品からひとまとまりのエピソードを持ってきて挿入しているので、もはや「本歌取り」を当てはめることができません。
「本歌取り」であれば、その本歌(原典)を明らかにすることが不可欠であり、そのうえで新たなひとつの歌を創作していなければならないのですから(ということは改めて説明するまでもないでしょうが)。
原典を明らかにせず、先行歌の優れた句を持ってきて、つぎはぎの後がはっきり見える具合で自らの歌を装飾するに留まっているような歌でも、歌の世界では「盗作」ではなく「本歌取り」とされるのは、(繰り返しになりますが)和歌という文芸のジャンルにおいて、ひとつの技巧として成立しているからなのです(上記のような歌は、さぞひどい評価を受けるでしょうが)。
小説というジャンルでは「本歌取り」という技巧が成立していないうえ、その作法も守られていないので、「盗作」だという指摘が起こったのではないでしょうか?

なんだか本筋からずれてしまいました。
長文失礼いたしました。

投稿: トヤマ | 2005-11-28 18:33

トヤマさま

このところ忙しい日が続き、ブログの更新も思うに任せず、こちらにも書き込みをしようと思いながら、なかなかできない状況でした。

本歌取りに関しては、本筋から逸れてのご指摘だとのことですので、できればこの点には触れずに僕の意見を申し上げようと思いましたが、どうもそれは難しいので、先にそのことにちょっとだけ触れさせていただきますと…。
僕は『誰のための綾織』の『はみだしっ子』との類似を本歌取りに擬えたわけではありません。単に、全体の例えば半分以上の部分が先行作品とそっくり同じような作品が独立した文学作品として成立しうる例として、本歌取りをあげたつもりです。
文字通りの、というか和歌における本歌取りそのままの意味で、小説に「本歌取り」が成立することはまず考えられないのは、言うまでもありません。
第一、僕は『はみだしっ子』も『誰のための綾織』も読んでいませんから、『誰のための綾織』が『はみだしっ子』の本歌取りであるなどということは主張すべくもありません。

付言すれば、本歌取りでは原典を明らかにする必要はありません。和歌が必須の教養であった時代に、先行する優れた詩が作り手・鑑賞者ともにすべて知られていることが前提になって初めて成立する技法だからです。その意味でも、小説に本歌取りというものをそのまま持ち込むことは不可能ですよね。

理念的には(あくまで理念的には、ですが)小説においても、例えば8割がたが先行作品とそっくり同じ文を使って作られた作品というようなものも「夢想」いたします。
そのような作品とは具体的にはどのようなものかと問われても僕は困りますが(笑)。

つまり、何が言いたいかというと、文学作品というのは創り手の創意によるもので、その「創意」には、例えば(そうした才能を持ち合わせない僕にはこういう不恰好な類推しかできませんが)、多くを先行作品に準拠しつつも、全体としてはまったく違う作品というものもありうるのではないか。それほど文学作品は「予測不能」なものであります。あらかじめ何十箇所か似ている部分があれば「盗作」というような判断できるものではないというのが僕の考えです。
喩えは悪いかもしれないが、マルセル・デュシャンの「泉」を想起してください。

その上で申し上げると、冒頭の

>「明確になっていない」とは、「盗作であるという正式(法的)な判決が下っていない」との意味でしょうか?

とのご質問への答えは、最終的には「YES」です。

今回のケースが、裁判が行われるような状況にはないことは承知していますので、司法の場で結論が出ないことをもって、今回のケースが「盗作」ではないなどと強弁するつもりはありませんが、「盗作」であるかどうかの判断にはそのくらいの、つまり、裁判で結論を出すと同程度の精度検証が必要だと言うことを申し上げたい。

それと、

>「盗作」について明確なラインがないのだから、今回のような騒ぎになってしまう

というのはまったくご指摘の通りだと、僕も思います。

今回の一件で、版元が素早く絶版を決めたのは、法的な観点からではなく倫理的な観点からであることに、一定の理解はできます。その意味で迅速な対応をしたことは褒められこそすれ貶されることはないと思われるむきもあるかもしれない。
しかし、出版社が絶版にするということは、書き手からすれば言論を圧迫することになることも考慮すべきだと思うのです。
くどいようですが、僕は今回のケースについて細かい事情を知っているわけではありません。しかし出版社とそれほど売れっ子とはいえない作家との力関係を考えれば、書き手本人が認めたからと言って即座に絶版につなげてしまうことには、いささかの危惧を覚えます。

〔原典のファン(別にファンでなくても、「一般読者」でもよいのですが)からの指摘〕→〔書き手に確認〕→〔絶版〕という作業が繰り返されるとしたら、仮にそれが、出版社の良心から行われたことだとしても、結果的には表現の封殺につながりかねないのではないか、との恐れを感じるのです。

投稿: maimai | 2005-12-04 17:00

お返事ありがとうございました。

よもや、当該作品を読まずに仰っているとは思わなかったもので、お騒がせしたことをお詫びします。


>理念的には(あくまで理念的には、ですが)小説においても、例えば8割がたが先行作品とそっくり同じ文を使って作られた作品というようなものも「夢想」いたします。
そのような作品とは具体的にはどのようなものかと問われても僕は困りますが(笑)。

誰もが困るでしょうね。

投稿: トヤマ | 2005-12-08 12:49

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