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2005-09-28

今さらですが「マトリックス」について

 グレッグ・イーガンのSF長編『ディアスポラ』(山岸真訳・ハヤカワ文庫SF)が出たので、さっそく読んでいる。ソフトウエア化された人間という、『順列都市』でもおなじみのモチーフだが、しょっぱなからイーガン節炸裂で、物語の舞台となる時代・社会に関する説明なしにいきなり話が進む上、固有曲率やらリーマン空間といった、文系には脂っこい(消化しにくい)ことばが頻出するので、なかなか進まない。ヒーヒーいいながら読んでいるにも拘らず「何となく」程度にしか理解できないが、それでも主人公と思われる人物(ソフトウエア)が誕生するまでの過程を描いた第1章は、センス・オブ・ワンダーに満ちている。まだ全体の半分くらいしか読んでいないので感想めいたことは言えないが、とりあえず第1章(最初の70ページくらい)の最後まで辿り着いて、それでもこの小説に取り憑かれないようだったら、現代SFをこれ以上追いかけようとするのはやめたほうが良いかもしれない。

matrevo この「ソフトウエア化された人間」というフレーズで、思い浮かべたのは、映画「マトリックス」3部作のこと。「仮想現実」というキーワードで括るよりも、「人類のソフトウエア化」という概念のほうが、この3部作の本質に寄り添っているかな、と思ったのである。

 えーと…、何言ってんだか分かりませんね、すみません。「マトリックス」とはまた、何を今さらとお思いでしょうが、僕としてはどこかで一度まとめておく必要があって。どうも引っかかっているのです。あのシリーズに対する世間の評価と僕のそれとのズレが。

 この流れでいくとイーガンを読んでいてなぜこの「マトリックス」問題を思い出したのかというところから本題に入っていくことになるのだけど、よく考えたら、それは書けない。できればこの文章が終わるまでにはどこかで書きたいとも思うけど、それもたぶん無理。「また始まった」と思われる向きもありましょうが(苦笑)、ごめんなさい、分かる人だけ分かってね(ハート)。イーガンの話はとりあえず忘れてください。

 というわけで、ようやく(再度苦笑)本題。

 つまり、あの3部作とは一体何だったのか? 

 第1作「マトリックス」はともかく、実際にはひと連なりの作業の中で作られた2本の映画、第2作「マトリックス・リローデッド」第3作「マトリックス・レボリューションズ」に関しては、世間的な評価はいまもって低い。

 その評価の低さは、ごく大雑把に総括してしまうならば、特に「レボリューションズ」終盤の「けむに巻かれた」感によるところが大きいのではないか。つまり、「マトリックス」一作で完結させておけばいいものを、「リローデッド」で風呂敷を広げすぎてしまい、最後は“哲学もどき”に逃げたのではないか、と。話を大袈裟にするだけしておいて無理矢理つけたあの結末は、機械と妥協して条件付きの部分的な戦果を上げました、というに過ぎず、シリーズ全体を矮小化しただけに終わったのではないか、と。

 しかし、この3部作はちゃんと首尾一貫していると僕は思っている。映画としての出来がどうかという議論はあるかもしれないが、少なくとも筋立ては破綻していない。

 第1作には、ひょっとしたら作り手の側さえも明確には考えていなかったかもしれない矛盾が内在していた。しかし続編を作らず1作のみで完結させるのならば、それはさほど表面化しないので放置することも可能だったのだ。続編を作るという前提に立ったとき、作り手はその問題に直面しないわけには行かなくなった。
 というよりも、第1作の大ヒットによってフリーハンドを手にしたウォショウスキー兄弟が、その矛盾を表面化・解決する方向で続編を作ったと言った方が正確かもしれない。

 その「矛盾」とは、一体何か? それはもちろん「リアルとは何か」ということだ。

 これは、バーチャルリアリティを根幹に据えた物語では避けて通れない問題だ。というよりも、「仮想現実」に関する物語はすべて、明示的にせよ暗示的にせよ、常にこの問題を我々に突き付けるために存在しているのかもしれない。
 マトリックス内で暮らす人々が自分たちの世界を「リアル」と感じているなら、マトリックスはリアルと等価ではないか? ネオら「リアル」の側の人間がマトリックスへの「潜入」中にマトリックス内で「殺され」ると、「現実」の彼らも同時に死ぬのだとするなら、「リアル」と「マトリックス」の本質的な違いは何か。
 そしてそのことは、〈ネオらがマトリックス内のほかの人間(警官やら警備員やら)を殺すことは殺人にならないのか〉という疑問と表裏一体だ。

 第1作ではこの問題は、ある意味単純な割り切り方で片隅に追いやられ、ひっそりと存在させられていた。それは当然のことながら、この映画が何よりもまずハリウッドの娯楽アクション映画でなければならなかったからだ。
しかし第1作が大ヒットしたことで、ウォショウスキー兄弟は第2・3作で少しだけ「牙」をむく。

 「健康な」ハリウッド的価値観は少し後退し、第1作においては、人類家畜化のためのツールとして存在し、現実世界に覚醒した人間にとっては唾棄すべきものであったバーチャル空間(マトリックス)は、第2・3作では、ひょっとしたらそうではない何か、現実と等価かもしれない何かに変貌していく。
 しかし、「健康な」ハリウッド的価値観とは何ぞや。苦しい「現実」に音を上げ、豪勢な「仮想現実」を選ぼうとする裏切り者サイファーの選択を、「退嬰的」と退けるのは確かに「健康」かもしれない。しかし、それならば、〔ネオやトリニティは覚醒したから、単なるソフトウエアであるマトリックスの中では超人のように行動でき、教習プログラムをインストール(?)するだけでヘリコプターを操縦でき、かっこいいアクションで人をどんどん殺せる(そのことによって観客は快感を覚える)〕というのは退嬰的で不健康ではないのか。
 第1作が矛盾を孕んでいたというのはそういう意味でもある。

 このシリーズで展開される物語は、よくいわれるような人間vs機械実存vsプログラム現実vs仮想現実といった図式で括られるようなものではない。ましてや愛(人類愛や男女の愛情)が機械に勝つ話などではない
 第1作の段階では、観客はそのようにとらえてさほどの支障がなかった。それは第1作では、〔機械・プログラム・仮想現実〕と、これに対立するものとしての〔人間・実存・現実〕との関係が、〔マトリックスのシステム・エージェント〕対〔覚醒した人間〕という対立軸とほぼ重なっていたからにほかならない。第2・3作ではこの二つの対立軸が次第にずれていく。

 その、ずれていく過程は、すなわち主人公ネオがさらなる覚醒に向かう過程でもあり、それに従って、かつては彼を導いたモーフィアスの世界認識からネオの世界認識が大きくはみ出し、さらなる高みへと上っていく過程でもある。
 その“ずれ”を感知できず、モーフィアスの世界観を共有したままでいると、最後で裏切られたような気分になる。それが、このシリーズを評価しない人々に起こったことなのではないのか、というのが僕の考えだ。

 うーむ、昔から言われていることだが、僕の話は長い。付き合ってくれた人、すみません。

 この項続きます(ガーン)。

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コメント

こんにちは。
maimaiさんの今日のテーマは、しっかりわたくしのアンテナにひっかっかりました。(笑)

わたくしの感想も、かなり近いですよ、以下のところ。

>その、ずれていく過程は、すなわち主人公ネオがさらなる覚醒に向かう過程でもあり、それに従って、かつては彼を導いたモーフィアスの世界認識からネオの世界認識が大きくはみ出し、さらなる高みへと上っていく過程でもある。
 その“ずれ”を感知できず、モーフィアスの世界観を共有したままでいると、最後で裏切られたような気分になる。それが、このシリーズを評価しない人々に起こったことなのではないのか、というのが僕の考えだ。

この映画の主題は、原作を読んでいないのでズレでいるかもしれませんけれど、キーワードは、「救世主」にあるとわたくしは思いました。

そうすると、「救世主」を待ち望んでいた紀元前からイエスの磔刑までのユダヤ民族の思いは、モーフィアスからユダまでつながり、
ネロは、同じ名前のキリスト教徒弾圧悪名高い皇帝の名前ながら、イエスと重なりますから、そういう文脈でわたくしは理解いたしました。でも、誰もそういうことは言っていらっしゃらないので、わたくしの「勝手な」理解かもしれませんけれど・・・・と思っておりましたが、原作を読む気にもなれず今に到っておりました。
これを機に、いつか、読んでみようかな、の読書リストにいれておきます。(苦笑)

投稿: gekkouinn | 2005-09-29 15:44

gekkouinnさま

 だらだらと長い文章ですみません。おまけに、まだ終わっていない記事なのにコメントをいただいて、恐縮してます。

 「救世主」がキーワードだというのはおっしゃる通りだと思います。

 >そうすると、「救世主」を待ち望んでいた紀元前からイエスの磔刑までのユダヤ民族の思いは、モーフィアスからユダまでつながり、
ネロは、同じ名前のキリスト教徒弾圧悪名高い皇帝の名前ながら、イエスと重なります

 地上における「神の王国」を信じていたユダヤの人々と、そこから発してより広い意味での神の国を唱えたイエスという構図は、分かりやすいですね。これを使って説明すればよかった。

 ただ、ごめんなさい、主人公の名は「ネロ」でなく「ネオ」です。「Neo」と綴り、さかさまにすると「one」。「the One」となるとイエスにつながります。

 この手の情報は結構出回っていて、ほかの登場人物の名前にもそれぞれ意味があったりします。
 特に重要なのがネオの恋人の名前「トリニティ」(「三位一体」)だと思っています。

 というわけで、続き(現在鋭意執筆中)ではこの「三位一体」が何をさすのかが中心となるはずです。

 それともうひとつ、このシリーズのストーリーは映画オリジナルで、原作というのは存在しないのです。と思ってAmazonで検索したら、第一作「マトリックス」のシナリオの他、攻略本というか謎本のようなものもいくつか出ているようです。

投稿: maimai | 2005-09-29 22:40

maimaiさま、こんばんは!コメントを書き入れておきながら、以後、mixiからこちらにアクセスできなくておりました。(--;)

そうでしたか、彼は、ネロじゃなくてネオだったんですね!ネロと聴こえていたので、ネロだとばっかり思い込んでおりました。
トリニティは、おっしゃる通り、三位一体ですから、なにとの三位一体なのかと思って最初の映画は観ました。(苦笑)

ネロは、イエス
トリニティは、マリア
モーリファスは、ヨハネ

ということかしらと。
わたしは、映画だけ観て、パンフレットも映画情報誌もまったく見ません。でうから、勝手にそのゆに解釈して、一人で???といったハテナマークと戦っておりました。

救世主という言葉を意識したのは、最初の第一回からでございました。

投稿: gekkouinn | 2005-10-07 01:30

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