2007-11-05

『鉄塔 武蔵野線』

Tettoumusasinosen_2 素晴らしい本だ。小説作品としてはもちろん、その容れ物である「本」としても。

『鉄塔 武蔵野線』  銀林みのる著 ソフトバンク文庫

日本ファンタジーノベル大賞受賞作として’94年に単行本が出たときには、小説としてはあまりに風変わりなその外見に腰が引けてスルー。

当時、あちこちで絶賛の声は聞いていたし、それらが口をそろえたように「空前絶後」とか「とてつもない」というような言葉で、この本が物語としても物体としての本としても「異形」であることに言及していることに、本読みの端くれとして興味もかき立てられはしたのだけれども……。
延々と並ぶ同じような鉄塔の写真が同賞の応募原稿の時点ですでに添えられていた(というより原稿の一部として組み込まれていた)という逸話に、なにやらパラノイアックな空気を感じたりもして、腰が引けたというよりは、その辺りに違和感を覚えたというのが本当のところだ。

この本自体は確かにおもしろいのかもしれない。しかしそれは作者の鉄塔に対する過剰なまでの愛情がそうさせたのであって、小説として、物語としてそれはどうなのか、と。作家としてそれはどうなのか、と。
もっと言えば、そういう作家に(つまり二作目、三作目が期待できるかどうかわからない作家に)新人発掘の場としての文学賞を与える審査員の考えは、一体いかなるものか、と。
いや、そう具体的に考えたわけではないけれども、言葉にすればそういうことだ。

で、いま振り返ってみれば、銀林みのるはその後ひとつの新作も出さずに現在に至り、その点では僕の危惧の通りになった。

と、なにやらつまらぬことでイバっているみたいだが、そうではない。むしろ不明を恥じている。当時の自分の胸倉をつかんで言ってやりたい。「つべこべ言わずにとっとと読め!」と。

銀林みのるが、ひょとしたら永遠にこれ一作で終わる作家かもしれない(ずーっと新作を執筆中という話も)のは、銀林が書き手として未熟だからでは、少なくともない。
それどころかこれほどの力量の持ち主はそうはいない。言葉の一つひとつが慎重に、しかしアグレッシブに(というより、小説の文章においては両者はむしろ同じ事柄の表と裏だが)選ばれていることは、書き出しの数ページを読んだだけでわかるはず(あの時の僕にはわからなかった)。
小学5年生の男の子の第一人称で、この年代の少年の心理を生き生きと描き出すことを主眼としながら、その人称代名詞を「わたし」にした(かなり長じて後に当時を振り返るかたちにした)センスも、並大抵のものではない。

少年が送電線の鉄塔を1本1本辿っていく話が、これほどおもしろい、ドキドキするような冒険譚になると、一体誰に想像できるだろうか。
文章部分と同じくらいのボリュームで掲載されている、ちょっと見たところではどれも同じようにしか見えない大量の鉄塔写真に、作者以外の人間がこれほどの愛着を覚えるようになると、一体誰に想像できるだろうか。

作者が幼時より鉄塔に強い愛情を抱いていたこと、語り手として稀なセンスをもっていたこと、その愛情とセンスこそが、作者をして鉄塔を中心に据えた小説を書こうと思い立たせたこと、その情熱が、小説作品に大量の(興味のないものが見たらどれも同じようにしか見えない)写真を組み込みたいと強く希望させたこと、そして異様ともいうべきその希望を編集者が受け入れたこと。
この本は、それらの要素が重なって初めてこの世に姿を現した、本当に奇跡のような作品なのだ。

この先この作家がほかにどのような作品を残しうるか、などは、これに比べれば大した問題ではない。

初刊時の新潮社の単行本では、作者が望む写真をすべて収録することはできなかった。それでも340枚という大量の写真が本文ページの合い間に挟まれた。同社が文庫化したときには収録点数はそれより増えたものの、写真はすべて小さく巻末にまとめられた。
今回のソフトバンク文庫版で初めて作者が望む配置で、望む点数の写真が完全収録された。ソフトバンククリエイティブに拍手。

ただ、惜しむらくは文庫という物理的制約から、写真が小さく印刷も上出来とは言いにくい。作者が狙ったとおりの効果がすべての部分において出ているとは残念ながら言えない。
ソフトバンククリエイティブには、この形のまま写真印刷にふさわしい紙や判型を使った愛蔵版をぜひとも出していただきたい。文庫の値段の5倍くらいまでなら必ず買う。
そして銀林みのる氏には現在執筆中の作品をぜひとも完成させていただきたい。どのような形で出版されようとも絶対に買う。少なくとも次の一作は。

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2007-03-10

「コミック版」

Comicbunntai  こんな本が出てたのね、昨年の9月に。ちっとも知らなかった。

 『コミック 文体練習』 マット・マドン 国書刊行会

 現在の生活の方が、以前のそれよりも本に近いようで実は遠いというのが良くわかる。
 1年前までならこういう本はまず見逃していない。

 レーモン・クノーの『文体練習』は、メチャメチャにおもしろい本だったが、このコミック版もなかなかのものだ。

 バリエーションが全部で99通りなのも「原典」通り。雛形となるのが何の変哲もないエピソードなのも「原典」と一緒だ。ただ、コミック版の方のそれにはオチらしきものがついている(つまりまがりなりにもコミックとしてひとつの作品になっている)のに対し、「原典」の方はもっとニュートラルで、単独では成立しない文章である分、「練習」の果敢さがより引き立つ気がする。なにより、クノー(と訳者)の超絶技巧に比べてこのコミック版の作者の技巧は、たぶん一段も二段も落ちる。
 しかしまあ、思いついたもん勝ちということで。
 充分に楽しみました。何回か読み返しているが、そのたびに新しい発見がある。

 こういう場合の権利関係がどうなるのかはよく知らないが、日本ではできれば寺田克也あたりに同じことをやってもらいたい。古屋兎丸でも可。つーか、こういうのきっと好きだと思う、2人とも。

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2006-05-13

『蜂の巣にキス』

 ジョナBee_3 サン・キャロルの作品が訳されるのは9年ぶりだそうで。
歳とるわけだ、こりゃ。

『蜂の巣にキス』 ジョナサン・キャロル著/浅羽 莢子訳 創元推理文庫

 久しぶりのキャロルを堪能した。堪能 したけど、これはキャロル・ファンのための作品だな。最初にこれを読むのはお勧めできない。ファンになってから読んでください。

これまでのキャロルと違って、今回は「超自然」というかダークファンタジーの要素が鳴りを潜めているように、表面的には、見える。
 「さらーっと読んでしまえば、これはよくあるタイプの過去探しミステリにすぎない。しかし――。」という、本書解説の豊崎由美の指摘は概ね正しい(ところで、この人の言い方というのはいつも概ね正しいのにどこかずれている気がする。それはなぜなんだろう?)。だが、「しかし――」以降の部分に頷くことができるのは、やはりキャロルの魅力をすでに理解している人に限られるだろう。本書でキャロルに初めて触れる人にとっては、本書はやっぱり「普通にミステリ」ではないか。それもあまり出来の良くないそれではないか。
 要するに、こういう「ただのミステリ」みたいな話が、「ただのミステリ」のように語られて、「ただのミステリみたい」な結末が付くのに、全体としては「ただのミステリ」ですまないところがキャロルなんだが。
 ミステリとして読んだら怒る人もいると思う。

 評点は、難しいけど、

 ☆☆☆★★★

 っつうところでどうだ。

 個人的には☆☆☆☆★くらいあげたいところだが、そうすると『死者の書』とか『パニックの手』とかは何点にすればいいんだ、という話にもなる。

 そういえば『パニックの手』文庫版、近日発売。具体的には5/27発売予定。もちろん創元推理文庫。おもしろいぞ。
 今月の創元推理文庫はもうひとつ目玉がある。
 『隠し部屋を査察して』エリック・マコーマック。5/20発売予定。へんな作家です。メタ方面が好きな人はぜひ。

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2006-05-09

3月初旬、生活が激変した

  社会人になって以来の大変化。当初は以前より自由な時間が多少増えるのではないかと思っていたが、まったく正反対。まあ、大局的に見ればよい方向への変化だと思いたいが、まだ判断はつかない。
 当ブログも2ヵ月にわたって放置することになった。

 いずれにせよ、以前のように当ブログを更新していくことは、少なくとも当分の間ほとんど不可能になった。しばらくはこのまま放置しようかとも思ったが、それもさびしい。少し落ち着いたことでもあるし、多少無理をしてでも何かを書くのは悪いことではあるまい、と思って、できるだけ書くことにした。もともと更新頻度の低かった当ブログ、さらに頻度が低下することは間違いない。

といっても書くことは基本的に変わり映えせず。

最近読んだ本。

Menotanzyou『眼の誕生――カンブリア紀大進化の謎を解く』 アンドリュー・パーカー著/渡辺政隆・今西康子訳/草思社」

 内容を要約しようとするならば、タイトルがすべて。

 Q.さまざまな種の多細胞生物が一挙に進化した、いわゆる「カンブリア紀の爆発」はなぜ起こったか?
 A.視覚をもつ生物種が登場したから

 かなりの「目ウロコ本」だが、ウロコのほとんどはタイトルを読んだ時点で落ちてしまう
 要するに、視覚が登場する以前と以後では捕食と被捕食のあり方が決定的に変わる。その大きな変化による淘汰圧がカンブリア紀の多種多様な生物進化を引き起こした、ということで、進化論やら生物学やらをちょっと聞きかじった程度の、僕のような人間でも、タイトルを読んでピンとくるし、本書を読み終えても、その「ピン!」からそれほど遠いところへ連れて行ってくれるわけではない。
 つまり本文は言ってみれば枝葉末節。だけど、その枝葉末節もそれなりにおもしろい。
 たとえば139ページにある、こんな枝葉。

 海の動物を見ると、水深200メートルより深いところでは赤い色をしたものが多くなるが、それはなぜか。この水深にくるまでに届く光は青だけなので、青い光を吸収してしまう赤い色素は光を反射しない。つまり深海においては赤い色は隠蔽色として優れている。

 こういうところで細かいウロコがポロポロと落ちるので、最後までおもしろく読める。

 著者の主張は「光スイッチ説」と呼ばれており、それなりに知られた学説らしい。僕はまったく知りませんでした。

5/12追記 しばらく書かなかったらすっかり忘れてた、この本の評点。
☆☆☆☆でどうだ。ただし生物学なり進化論なりに多少でも興味のある人のみ。

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2006-03-03

先々月と先月の収支(06/1~06/2)

 「積読本」の収支計算は、更新を怠っている間にはや2月も終わり(笑)。ふた月分をまとめてアップしとく。

 まず、1月の「積読本」は、以下の10プラス1冊。

 (1)『マッカンドルー航宙記』 チャールズ・シェフィールド
 (2)『イニシエーション・ラブ』 乾くるみ
 (3)『フリーゾーン大混戦』 チャールズ・プラット
 (4)『小鼠ニューヨークを侵略』 レナード・ウイバーリー
 (5)『一角獣・多角獣』 シオドア・スタージョン
 (6)『高等学校琉球・沖縄史』 沖縄歴史教育研究会・新城俊昭
 (7)『天国の発見(下)』 ハリー・ムリシュ
 (8)『 日本の近代 4 「国際化」の中の帝国日本―1905~1924』 有馬学
 (9)『ハルカ・エイティ』 姫野カオルコ
 (10)『シャングリ・ラ』 池上永一
   【番外】『スキャナー・ダークリー』 フィリップ・K・ディック

 その後買ったのが

 (11)『アクアポリスQ』 津原泰水
 (12)『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』 橋本治
 (13)『仮面の告白』 三島由紀夫
 (14)『金閣寺』 三島由紀夫
 (15)『銀齢の果て』 筒井康隆
 (16)『くじ』 シャーリー・ジャクスン
 (17)『太陽レンズの彼方へ』 チャールズ・シェフィールド
 (18)『老ヴォールの惑星』
 (19)『デス博士の島その他の物語』 ジーン・ウルフ
 (20)『パロマー』 イタロ・カルヴィーノ
 (21)『夢みる宝石』 シオドア・スタージョン
 うち読み終えたのが
 (1)(2)(3)(4)(5)(7)(8)(9)(11)(12)(13)(14)(15)(18)(21)の14冊。

 従って、3月の積読本は次の7冊だ(おっ、成績いいな)。

 『高等学校琉球・沖縄史』 沖縄歴史教育研究会・新城俊昭
 『シャングリ・ラ』 池上永一
 『スキャナー・ダークリー』 フィリップ・K・ディック
 『くじ』 シャーリー・ジャクスン
 『太陽レンズの彼方へ―マッカンドルー航宙記』 チャールズ・シェフィールド
 『デス博士の島その他の物語』 ジーン・ウルフ
 『パロマー』 イタロ・カルヴィーノ

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2006-03-01

老人版バトル・ロワイヤル

ginrei 『銀齢の果て』 筒井康隆

 おもしろくなかったとは言わないが、特にこの手の話の場合、筒井だと読み手の側はどうしてもハードルを高くしてしまう。

 どこかの雑誌で著者本人も語っていたが、これは筒井版『バトル・ロワイアル』。中学生ではなく老人が殺し合うところが「オリジナル」との大きな違い。
 僕が『バトル・ロワイヤル』を、やはりそれほど好きになれなかったのは、「残酷」だからではなく、設定がおざなりにしか行われていないから。
 中学生に殺し合いを行わせるための、必要最小限の説明をすましてしまうと、「手続きは済んだ」とばかり、「本題」に入っていく。要するにRPGの導入部みたいなもので、主人公たちがいくら社会や国家権力への怒りを募らせようと、戦場に美しい友情やら愛情やらの花を咲かせようと、体制転覆を決意しようと、そんなものは上っ面を舐めただけのものにしか見えない。
 作品の眼目は明らかに別のところにあり、それを一方で語るための免罪符代わりに持ち出してきたに過ぎないようなものにことさら脚光を当てて、優れた青春小説であるなどと言われても、何と言葉を返してよいやら。
 「大東亜共和国」とか「バトルロワイヤル法」とか、それらしい設定を持ち出してきても、それらは「逃げ場のない場所での少年たちの殺し合い」というきわめてゲーム的なこの小説のプロットを成立させるためだけの、俄か誂えのプレハブ建築。そんなものに「若者の怒り」をぶつけられても困る。

 『銀齢の果て』が『バトル・ロワイヤル』と決定的に違っているのは、子どもじゃなくて老人が殺し合うこと、っつーのはさっき書いた、そうじゃなくて、そういう中途半端な世界設定をしないことだ。
 老人が殺し合わなければならなくなる理由付けは『バトル・ロワイヤル』よりさらにおざなり。その替わり彼らの社会に対する怒りも体制への批判もおざなりで、そんなことに作者は頓着していない。
 早く言えば作者の姿勢として、『バトル・ロワイヤル』などがこだわった部分に関して、まったくもって潔い。

 などというのは今に始まった話ではなく、筒井のスラップスティック方面の作品の、言ってみればそれが特徴。今回の作品自体は出来としては全盛期のものにはやはり遠く及ばないが、それでも筒井は筒井。なにやら名人と謳われた噺家の、老いてすっかり口も回らなくなったのちの、しかしその歳にして初めて出せる味わいの落語を聴いているような感じ。
 あるいは晩年の馬場のプロレスとか。

 評価は☆☆☆★

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2006-02-22

最近買った本

 最近買った本。
 相変わらずSFが多い。

 『太陽レンズの彼方へ――マッカンドルー航宙記』 チャールズ・シェフィールド
 は、先日シリーズ前作の『太陽レンズの彼方へ』を読み終えたので、ようやく買ってきた。

 『老ヴォールの惑星』 小川一水
 は、「SFがよみたい! 2006年版」の国内篇第1位に輝いた作品。まったくノーマークでした。つーか、同じ著者の『第六大陸』は読んでいて、それなりにおもしろかったが、そのときの感じでも短編の得意な作家とは思えなかったので、何となく二の足を踏んでいた。
 1位ともなれば、読まないわけにはいくまい。こないだの記事とは微妙に矛盾するような感じもするが、気にしない気にしない。

 『デス博士の島その他の物語』 ジーン・ウルフ
 は、好調の国書刊行会「未来の文学」の、第二期一発目。ウルフは読んで理解できたためしがない。同じ叢書の『ケルベロス第五の首』も、ぼんやりとしか分からなかった。たぶんこれもよく分からないのだろうなと思いながらフラフラとレジへ。
 本書まえがきに記された、「デス博士の島その他の物語」「アイランド博士の死」「死の島の博士」という三つのタイトルの短編誕生のいきさつを読んで、心惹かれない小説読みがいるだろうか。

 『パロマー』 イタロ・カルヴィーノ
 カルヴィーノでは数少ない未読本のひとつ。なにしろ『イタリア民話集』だって読んでいる。この松籟社の「イタリア文学叢書」は汚れやすく、新刊本屋で見ても美本は少ないのに、古本屋で超美本を見つけたので買ってきた(同じ理由で『砂のコレクション』も未購入だ)
 久しぶりにカルヴィーノを読みますか。

 『夢みる宝石』 シオドア・スタージョン
 最近新装版が出たのは知っていたが、てっきり持っていると思っていた。それどころか、てっきり大昔に読んでると思っていた。いやホント。この年になるといろいろな記憶が混乱するんです。
 こないだ改めて手にとって、カバー裏のあらすじやら解説やらを読んだところ、まったく見たことも聞いたこともない話であることが判明(笑)。おかしいなぁ、旧版のカバーのイラストだってはっきり覚えているのに。

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2006-02-20

プライドと偏見

pride  というわけで、遅れてきた記事シリーズ第4弾。

 そろそろ「というわけ」が「どういうわけ」だったか、どうでもよくなってきたが、一応、今回の記事で、あのとき「近いうちに書く」と書いた4つが全部終わるので……。そんなことも、どうでもいいですね、すみません。

 まもなく公開期間が終わろうとしている「プライドと偏見」というよりも、もはや上映している劇場がほとんどない。
 だから簡単に済ませておきます。

 映画は、原作の筋のほとんどをよく2時間あまりの尺の中に盛り込んだ。しかも、当時の社会状況を説明的にならず、不親切にならず、さりげなく織り込んで過不足ない。監督のジョー・ライトは、これが長編デビューとは思えない演出ぶり。序盤近くのダンス・パーティの長回しなど、手馴れたものだ。
 200年以上も昔の話だが、台詞回しは大仰にならず、間抜けな男の間抜けな会話に笑いをこらえる若い娘といったシーンなどはむしろ現代的。台本はシェークスピア的なのに主人公の二人をみずみずしい生身の少年少女として描いたフランコ・ゼッフィレリの「ロミオとジュリエット」を思い出した。

 キーラ・ナイトレイは好みのタイプだが、惜しむらくは胸が小さい、というよりほとんどない。いや、いいんですけど…。この時代の衣装はちょっとどうか。現代劇の方が良いような気がするのだが。

 採点は☆☆☆☆★

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2006-02-12

2005年SFベスト

 もう、これが出る季節になった。さっそく買ってきてチェック。
     ↓
 『SFが読みたい! 2006年版』

 「海外篇」は、ベスト10中9タイトルを購入し、8タイトルを読んでいる。僕としては近年にない高打率(<何の打率だ?)。
 『ディアスポラ』(グレッグ・イーガン)の1位は、2位以下につけた大差も含めて納得。もっと差がついても良いくらいだ。その他の順位もほぼ順当だと思う。
 ただひとつ理解できないのが『啓示空間』(アレステア・レナルズ)の3位年間ベストに名を連ねるような作品なのだろうか。

 一方国内篇は、ベスト10の中で既読は3冊。20位まで広げても1冊増えるだけ。昨年を代表する20冊のうち4冊しか読んでいないのだから、やはり僕は日本SFファンとは言えない。
 しかも、その4作のうち、僕の中で半ば埋もれていたSFへの愛を掘り起こしてくれた『現代SF1500冊(乱闘編 1975―1995 回天編 1996‐2005)』(大森望)以外は全然感心できない。一昨年は日本SFには随分おもしろいものがそろったような気がしたが、今年は波長の合うものに出会わなかった。
 そもそも文章のヘタな作家は嫌いなのだ。「○○節」とか何とか言葉を飾ろうとも、ヘタはヘタ。誰とは言わんが。

 文章の巧拙のことで言えば、SF界に限らず何でこの人小説家なんだろうというくらいヘタな人はときどきいる(何かきょうは凶暴な気分だな)。
 たとえば誰かが煙草を吸うときには必ず「紫煙」という言葉を使わないと気がすまない某冒険小説作家とか。主人公が(おそらく)ヘビースモーカーなので、「紫煙をくゆらせた」だの「立ちのぼる紫煙を眺めた」だのといった表現が数ページおきに出てきて、五月の蝿である。誰とは言わんが。

 別に読み巧者ぶるわけじゃないのだけれど。マンガに関しちゃ画力は別に問わないが、小説の場合は、たまたま読んだ話がおもしろいなと思っても、文章が一定以上の水準に達していないと好きになれない。翻訳ものはその辺のハードルが低くなる(というより訳者に左右されるという思いがあるから無意識的にハードルを低くしている?)。
 だから日本SFは(一部の例外を除いて)あまり読まないのだな、と憎まれ口を利いてみる。

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2006-02-10

『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』

hashimoto  というわけで、遅れてきた記事シリーズ第3弾。

『「三島由紀夫」とはなにものだったのか』 橋本治 新潮文庫

 三島由紀夫はこれまでほとんど読んでこなかった。高校生のころにたぶん『金閣寺』を読んで、それきりだったのではないかと思う。だって、よく分からなかったんだもん。
 あるいは『潮騒』も読んだかもしれない。

 そんな私ですが、橋本治は若いころかなり好きだった。新刊はすべて買っていた時期もある。今でも興味のある分野について書いていれば読むが、かつてほどではない。
 とはいえ今でも、『完本チャンバラ時代劇講座』は実に優れた日本大衆文化論だと思うし、隠居して時間でもできたら『男の編み物、橋本治の手トリ足トリ』で山口百恵柄のセーターの編み方を勉強したいと思う。
 だけどこの『「三島由紀夫」とはなにものだったのか」については、読むとしてもいつか、もう少し三島の代表作を読んでから、というような意識も働いて、なかなか読もうという気にならなかった。あまり食指が動かなかった。第一回小林秀雄賞受賞作だそうですが…。

 昨秋文庫化されたのでようやく購入。
 読んでみれば、さすがは橋本治、三島を知らない僕でもおもしろい(笑)。要するに三島由紀夫の「仮面」とは何だったかということを、作品を精緻に読み込むことでつまびらかにしていく。この「精緻に読み込む」というところがミソで、詳しくは書かないがこういうマネはこの人以外にはできない。
 そりゃ、無理だよ、健康な高校生に『金閣寺』を分かれと言ったって。ややこしい人だったのね三島由紀夫。

 三島作品に対する興味が俄然湧いてきます。それとも橋本治お得意のぶん回す文章に腹を立てるか、どっちかだな。
 ワタシはこれを読んだあと、立て続けに『仮面の告白』『金閣寺』を読みました。まもなく「豊饒の海」四部作にとりかかるでしょう(笑)。

 採点は☆☆☆☆★★★

 付記 この本、単行本で出たときも、カバーは文庫と同じ写真を使っていた。〈白地にそれぞれ金赤と黒の大きな活字でタイトルと作者名がはいる、例の三島作品の新潮文庫と同じデザインで作られた、文庫の写真〉というもので、それほど珍しいアイディアではないが、これが同じ新潮文庫に入り、そのカバーに新潮文庫の写真が印刷されている、というのは、本書の内容に合わせたような感じでおもしろい。

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